『論語』に現れた隠者と孔子(2)

『論語』に現れた隠者と孔子(2)

小路口 真理美・小路口 聡(共著)
*本稿は、小路口聡が、東洋大学エクステンション講座B(2011.11.10)で行った公開講座「『論語』の智恵に学ぶ 第二回 仁――人間にとって一番大切なもの」の内容をもとに話し合った内容を、小路口真理美が整理してまとめたものである。


今回は、前回のコラム『論語』に現れる隠者と孔子の続編(「二、「道の行われざるや、已に知れり」(微子篇18)――孔子の生きた時代」の続き)です。
(コラムタイトルをクリックいただくと、前回のコラムをご確認いただけます。)

 

 大河の流れ(=世の中)を変えるという、自分の行動の無謀さを思い知り、挫けそうになりながらも、人間の可能性と善意を信じて、天下を少しでもよい方向に変えようとした孔子。
そんな孔子達を励まし、背中を押してくれる理解者もいました。

 そんな人たちや、自分を信じてついてくる弟子たちの支えがあったからこそ、孔子は、前に進むことができたのでしょう。
 例えば、漢文資料5に登場する、儀の封人ほうじん(国境監視人)などは、孔子にとって、力強い理解者の一人であったでしょう。

儀の封人(国境監視人)が孔子に面会を求めてきて、「君子(賢者)が、この地にやって来ると、私は、必ずお目にかかることにしております」と言った。孔子の従者は、面会を取り次いだ。儀の封人が出できて言う。「お弟子さんたちは、どうして、(孔子先生が)地位を失って、国を去ったことをご心配なさるのか、それには及びません。天下に道が行われなくなって、久しいことです。天はきっと先生を木鐸としており、先生が警鐘を鳴らすことは、天下を正しい方向に教え導いていくことになるでしょう。」

 「天下に道が行われていないことは、もはや久しい」と儀の封人も言っています。
 しかし、同時に、彼は「天は決して人間を見捨てない。必ず警鐘を鳴らして、人々の目を覚まさせてくれる。その警鐘=木鐸の役割を担って、この世に生まれてきたのが、孔子その人である。」と述べて、孔子の世直しへの期待と信頼を寄せているのです。

 ただ、それが容易ではないことは、次の発言からも見て取れます。(漢文資料6)

先生が言った。「もし、王者が現れたとしても、天下に仁政がゆきわたるには、必ず三十年の歳月が必要だ。」

 もし王者が現れたとしても、この乱世を治め、天下に仁政がゆきわたるには、必ず「世」、すなわち三十年の歳月を必要とする、というのです。それほどまでに、乱れてしまった世の中を治めようと、孔子は立ち向かっていたわけです。
 それは、ほとんど不可能に近いことですが、それでも孔子はあきらめません。何が、孔子にそうさせていたのでしょうか。

 

三、「不可なるを知りて、之を為す」(憲問篇38)――それでも、あきらめない

 『論語』憲問篇に出てくる石門の晨門しんもん(門番)も、やはり、隠者の一人でしょう。これも、子路とのやりとりです。(漢文資料7)

子路が、石門の地で宿泊した。門番が言った。「どこから来られたのか。」子路が答えた。「孔氏のもとから来ました。」
門番が言った。「できないと分かっていながら、やろうとしている者か。」

 少なくとも、その言いぐさは、明らかに、隠者にふさわしいものではないでしょうか。皮肉が効いています。
 孔子がやろうとしていることを十分承知の上で、それを揶揄した発言です。しかし、長沮ちょうそ桀溺けつできとは異なり、晨門には、屈折した心理も読み取れます。
 あるいは、自分も若い頃は、孔子と同じ志を抱き、同じ夢をみていたのかもしれません。

 しかし、夢破れ、志も挫かれ、今は、世間に背を向けて生きている人物のようにも見えます。
 孔子の評判を聞きつけ、若い頃の自分と重ね合わせて、半ば理解を示しながら、半ば自らの挫折を踏まえて、世の中そんなに甘くはないぞと哀れみ、蔑む気持ちもあるように思えます。

 そうした屈折した心理が、この「できもしないと分かっていながら、やろうとしている者か」という揶揄の上には、読み取ることができるのではないでしょうか。
 そして、さらに言えば、やはりそれはそのまま孔子自身の葛藤でもあり、屈折でもあると言えるのではないでしょうか?

 この滔滔と勢いよく流れる大河の流れを変えようなどという大それたことは、所詮、無理なことかもしれない。そう思いつつも、それでも決してあきらめない、へこたれないのが孔子です。

 漢文資料8を参照してください。その中の孔子の「固を疾むなり」の一言にも、孔子の、断固とした前向きな決意が読み取れます。孔子の、きっぱりとした意志、決意を感じることができます。

微生畆びせいほが孔子に向かって言った。「丘さん、お前さんは、どうして、そんなにせわしなく諸国を歩き回っているのかい。言葉巧みに、人に取り入ろうとしているだけじゃないのかい。」
孔子が、それに応えて言った。「決して言葉巧みに人に取り入ろうとしているわけではありません。(天下に道を行うことを)ダメだと決めてかかるのが嫌いなだけだ。」

 微生畆については、どんな人物かはよく分かりませんが、『論語集注』で朱熹は、「孔子の名を呼び捨てにして、その物言いも尊大であるから、きっと、高齢で徳の高い、隠者であろう」と説明しています。

 また、「佞を為すこと無からんや」とある「佞」というのは、弁舌の才能を言い、ここでは言葉を巧みに操って、人に取り入ることを言います。
 孔子は、「佞者」を「亡国の士」として、最も嫌いました。
 顔淵が邦を治める方法を質問したのに対して、「佞人を遠ざけよ」と答え、その理由として、「佞人はあやうし(国を亡ぼす)」と答えています。

 また、「巧言令色、鮮なし仁」(学而)、「剛毅木訥、仁に近し」(子路)と、弟子たちに語った言葉を見れば、明らかに、孔子が「佞人(口の達者な人間)」が「仁」とは無縁な存在であると見なしていたことが分かります。

 そんな孔子ですから、「佞人」と目されたことは、おそらくは不本意だったでしょう。それをきっぱりと否定した上で、自分は「固を疾むだけだ」と答えています。
 孔子は、「意・必・固・我の四つを絶った」(子罕)という言葉を残しています。この「固」について朱熹は、「一つのことに執着して、融通性のない(固、執一而不通也)」ことだと言っています。

 朱熹は、子罕篇の「固」について、「執滯」と解釈しています。一つのことに固執・拘泥することです。つまり、これに拠れば、「固を疾む」とはすなわち、一つのことに拘泥することが嫌いだ、ということです。

 つまりこの文脈で言えば、固執の中身は、世の中を変えることなど出来ないに決まっている、という固定観念であり、それを打ち壊してやりたい、という孔子のチャレンジ精神が「疾固也(固を疾むなり)」の三文字の上に、読み取れるのではないでしょうか。
 この乱世を変えることは、できるかできないか、やってみなければ分からないではないか。そうした思いで、自分は行動しているのである。そう理解してみたいと思います。

 最後に、そんな孔子を導いているもの、もしくは、その原動力となって内側から孔子を突き動かしているものについて、見ていきたいと思います。
 孔子の十四年間の亡命生活、放浪生活を支えていた、精神的支柱とは何だったのかということです。(漢文資料9)

曾先生がおっしゃる。「人の上に立つ者は、心が広く、意志の強い人間でなければならない。その負担は重く、達成までの道のりは遠いからである。人の道を己の任務とする。何と重いことだ。それも、死ぬまで続く。何と遠いことだろう。」

 弟子の曾子の言葉です。仁道の実現を目指す士人たちが、自ら培ってきた高い志を、とてもよく言い表した言葉です。
 それはきっと、孔子の生き方に重ね合わせて、語り継がれたものだったのではないでしょうか。

 先の見えない不透明な世の中で、必死に生き方を模索し、遊説と対話によって、新たな人の道を創造し得た孔子を初めとする諸子百家の言葉は、今なお清新な響きを失わず、私たちに語りかけてくれるのではないでしょうか。


附記 本稿は「哲学資源としての漢文教材および学び方の開発に関する基礎的研究」(基盤研究(C)研究課題:20K02730)の研究成果の一部である。


【漢文資料】
資料作成にあたり、金谷治『論語』(岩波文庫 1999) を参照しました。

(漢文資料5)『論語』八佾篇24
儀封人請見。曰、「君子之至於斯也、吾未嘗不得見也。」從者見之。
出曰、「二三子、何患於喪乎。天下之無道也久矣。天將以夫子為木鐸。」

〈書き下し文〉
封人ほうじん見えんことを請ふ。曰く「君子の斯に至るや、吾未だ嘗て見ることを得ずんばあらざるなり」と。従者之を見えしむ。
出でて曰く「二三子、何ぞ喪することを患へんや。天下の道無きや久し。天将に夫子を以て木鐸ぼくたくと為さんとす」と。

(漢文資料6)『論語』子路篇10
子曰、「苟有用我者。期月而已可也、三年有成。」

〈書き下し文〉
子曰く「苟くも我を用うる者有れば、期月のみにして可ならん。三年にして成すこと有らん」と。

(漢文資料7)『論語』憲問篇38
子路宿於石門。晨門曰、「奚自。」子路曰、「自孔氏。」曰、「是知其不可而為之者與。」

〈書き下し文〉
子路石門に宿る。晨門曰く「奚れよりす」と。子路曰く「孔氏よりす」と。曰く「是れ其の不可を知りて之を為す者か」と。

(漢文資料8)『論語』憲問篇34

微生畆謂孔子曰、「丘何爲是栖栖者與。無乃爲佞乎。」孔子對曰、非敢爲佞也。疾固也。」
「子絶四。毋意、毋必、毋固、毋我。」(『論語』子罕)   朱注「固、執滯也。」

〈書き下し文〉
微生畆びせいほ、孔子に謂ひて曰く「丘、何為れぞ是れ栖栖せいせいたる者ぞ。乃ち佞を為すこと無からんや」と。孔子対へて曰く「敢へて佞を為すに非ざるなり。固をにくむなり」と。
「子、四を絶つ。意く、必毋く、固毋く、我毋し。」(『論語』子罕篇4) 朱注「固は、執滯なり。」

(漢文資料9)『論語』泰伯篇7
曾子曰、「士不可以不弘毅。任重而道遠。仁以爲己任。不亦重乎。死而後已。不亦遠乎。」

〈書き下し文〉
曾子曰く「士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す。亦た重からずや。死して後む。亦た遠からずや」と。

 

———————————————
国語・国文学専門の教育出版社
株式会社京都書房
https://www.kyo-sho.com
———————————————