※今回は、前回のコラム「漢文の読み方について 思いつくまま(3)」の続編です(コラムタイトルをクリックいただくと、前回のコラムをご確認いただけます)。最終回となる今回は、前回の9~12に続き、13~16番目の項目についてお届けします。
教=教科書の読み方 改=改めた読み方
13.天之亡我我何渡為(四面楚歌『史記』)
まず、①「天の我を亡ぼす」と②「天の我を亡ぼすなり」の読み方であるが、これは「主語+之+動詞+目的語」という構造であり、「之」の働きからすれば、明らかに一つの文ではなく、一つの名詞句である。したがって、「天之亡我」を一文として独立させて読むことはできない。そして、問題は「我何ぞ渡ることを為さん」という読み方である。「我何為渡」という語順であれば、教科書のような書き下し文の読み方は可能であるが、ここでは、目的語「渡」と動詞「為」の位置が入れ替わっている。これを反語であるから、その意味を強調するために語順を入れ替えているという説明がなされているが、どうも納得しがたい。『古代漢語虚詞詞典』(商務印書館)には、「為」は、反語の副詞「何」「奚」などと呼応して反語の語気を助ける助字としての働きを持つという説明がある。この考え方に基づいて、上の「改」のような読み方をする。きわめてすっきりとした読み方になる。この読み方については、これまでにも指摘されており、また、現行の教科書で採用しているものもある(2013年当時)。
14.令騎皆下馬歩行持短兵接戦(四面楚歌『史記』)
使役の助動詞「令」がどこまでかかるのかを考えたい。教科書に見られる一般的な読み方であるならば、この一文の主語は項王であるから、項王が騎馬兵に馬から下りて歩くことを命じ、その後の「短兵を持して接戦す。」は、項王自身が短い武器を持って接近戦を行ったということになる。ならば、騎馬兵たちはどうしたのかということになってしまう。このように考えると、使役の助動詞「令」は、「下馬歩行」だけではなく、「下馬歩行持短兵接戦」全体にかかっていると解釈する方がよいと考えられる。したがって、上の「改」のような読み方をする。
15.非夫人之為慟而誰為 (『論語』)
この読み方については、「之」を用いることによって、「身不善之患」(身の不善を之患ふ)(『管子』)が「患身不善」(身の不善を患ふ)の倒置表現になるのと同様、「之」は、前置詞句においても倒置表現として用いられるので、「夫人之為慟」(夫の人の為に慟す)は「為夫人慟」(夫の人の為に慟す)の倒置表現であるという。どうもしっくりこない。「為夫人慟」であれば、「夫の人の為に慟する」と読めるが、「夫人之為慟」という語順では、他の読みを考えざるを得ない。「為」には使役の助動詞としての用法がある。そこで、「之」は主語と動詞の間に入って名詞句を作る働き、「為」は使役の助動詞と考えて、上の「改」のような読み方をしたい。
16.風急天高猿嘯哀 渚清沙白鳥飛廻(杜甫『登高』)
教科書には、この二つの読み方が見られる。しかし、『登高』が全対の七言律詩であることを教えるのに、文構造を異にする「猿嘯哀」(猿嘯哀し)と「鳥飛廻」(鳥飛び廻る)とが対句であると言っても、生徒は納得しない。無理のない読み方としては、「猿嘯哀」(猿嘯哀し)を「猿嘯哀」(猿嘯き哀しむ)とする。こう読めば、「鳥飛廻」(鳥飛び廻る)と対句になっていることが説明できる。
おわりに
私たちの先人は訓読という方法を考えついた。中国語の文語文を日本語として読む便利な方法である。本来、中国の文語文は中国語として読むべきである。ところが、それをそのまま日本語に変換して解釈しようとしたために、訓読という方法はさまざまな欠陥を含み持つことになった。たとえば、今、定着している読みの中には、本来の微妙な意味を反映していないものがあったり、語の働きを無視したものなどがある。「則・即・便・而・乃・輒」をすべて「すなはチ」と読んだり、助動詞的な働きの語である「敢・肯」を、「あヘテ」という副詞的な読み方をしているのがそれである。11(本コラムの第3回参照)に見られる誤読は後者の理由による。
今回、教科書の奇妙な読み方という副題のもとに、思いつくままに私見を述べさせていただいた。長らく漢文を教えていながら、いまだに漢文が読めるという域には達していない。しかし、少なくとも教科書の教材については自分自身が理解したものを生徒に伝えたい。本稿の内容について、私自身の独りよがりな解釈もあるかとは思うが、その際はご教示願いたい。
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