こんにちは。京都書房編集部のYです。
近頃は日ごとに暖かくなり、過ごしやすくなってきたのが嬉しいところです。
心地よい陽気に、こちらの詩が浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
「春暁」
春眠不覚暁/処処聞啼鳥
夜来風雨声/花落知多少
ご存じの通り、官職に就かぬまま一生を終えた孟浩然の詩です。
さて、今回はこの「春暁」の様々な訳を見比べていこうと思います。
新学習指導要領の「言語文化」、「読むこと」でも、「和歌や俳句などを読み、書き換えることを通して、互いの解釈の違いについて考える」ことが挙げられています。
様々な訳を比べることで、同じ詩を読んでいても、想像する状況は少しずつ違うこと、そして着目する箇所が違うことが感じ取れます。
ちなみに、皆様は上の詩をどのように読まれたでしょうか。
直訳はもちろん、以下の通りです。
春の眠りは心地がよく、夜が明けるのも気づかないほどだ
あちらこちらから鳥の鳴き声が聞こえてくる
昨夜は風雨の音がしていた
いったいどれほどの花が散っただろう
では、本題に入りましょう。
まずはかの井伏鱒二の訳と、佐藤一英の訳を見てみましょう。どちらもコンパクトな訳ながら、着眼点がはっきりとしています。
ハルノネザメノウツツデ聞ケバ/トリノナクネデ目ガサメマシタ
ヨルノアラシニ雨マジリ/散ッタ木ノ花イカホドバカリ
(井伏鱒二『厄除け詩集』講談社文芸文庫、1994)
さめやらぬこころに遠く/またちかく とりなきかはす
あめ風は止みやしぬらむ/花や落ちし 落ちずやいかに
(佐藤一英『新韻律詩抄』小山書店、1935)
井伏鱒二は起句のうとうととした心地よさから始まり、承句も「(私は)目ガサメマシタ」と、自身の様子を中心に据えています。
まどろんでいたところから次第に覚醒していく姿が感じられるでしょう。
それに対し、佐藤一英は原文の起句をさらりと流し(訳に「春」がない!)庭から聞こえる鳥の声を「遠く/またちかく」と描写しています。
井伏鱒二の訳では「処処」が省略されているのに対し、こちらは「なき『かはす』」と、方々で鳴く鳥の様子が強調されています。
では、今度は結句に注目しましょう。上の二種は「どれくらい散っただろうか」「散っただろうか、それとも散っていないだろうか」というニュアンスです。
このとき、作者の頭の中には何が想像されているでしょうか?
昨日まで咲いていた枝を浮かべて、「あの花はどうなっただろうか」と思っている? それとも散った後の寂しい枝を想像している? 花が鮮やかに散った地面を想像している? そうだとすれば、どれくらい散っている様子を浮かべている?
そもそも、昨日まで庭にはどのくらい花が咲いていたのでしょうか?
◆◆
さて、上の二作に比べて、土岐善麿の訳がこちらです。
春あけぼのの うすねむり/まくらにかよう 鳥の声
風まじりなる 夜べの雨/花ちりけんか 庭もせに
(土岐善麿『鶯の卵』アルス、1925)
「庭もせに」は「狭に」、つまり花が所狭しと散った庭の様子を想像しているわけです。
(余談ですが、「あかつき」と「あけぼの」で時間にややずれが起きています。しかし現代人の感覚的にはこの方がしっくりくるのかもしれません。)
これに近い、日本人による英訳があるので見てみましょう。
I am in bed, disturbed by the bright dawn.
I hear early birds sing hither and yon.
Since last night the rainy winds have blown hard,
Flowers may have fallen to carpet the yard.
(東山拓志『英訳漢詩名作』萌動社、2008)
韻も踏んでいて見事な訳詩です。
結句では「carpet the yard」と、地面いっぱいに花びらが散った様子を想像しています。「花は今頃庭に絨毯を作っているかな」というニュアンスでしょう。
春の暴風の後には花びらの絨毯、というのは現代の日本人にとっては風物詩ですが、中国では春の「花」といえば牡丹か桃か梅か李か……絨毯のできるような花はかなり限られてきます。そう思うと、日本人らしい英訳なのかもしれません。
少々堅い訳が続いてきたので、やわらかい訳もひとつ。
ネムタイ朝ノユメゴコチ/チュンチュン雀モ鳴イテイル
昨夜ヒトバン雨風アレタ/花モヨッポド散ッタロウ
(松下緑著・柳川 創造編「漢詩に遊ぶ―読んで楽しい七五訳」集英社文庫、2006)
雀が出てきたことでぐっと身近になりました。
起句をこれまでの訳と比べてみると、この訳が一番心地よさそうにも感じられます。
◆◆
見比べてみましたが、いかがでしょうか。
漢詩を現代語訳するときは、もちろんまずはなるべく元の詩のニュアンスを崩さないように、余計なものを足しすぎず、元あった言葉を引かずに訳するのが大切。
一方で直訳とは別に、詩から受けた印象を強調させて、詩的な訳に作り変えてみるのも面白いことでしょう。
そうして読み替えたものを見比べることで、解釈の違いに気づくこともあるかもしれません。
さて、最後に、面白い邦訳を見つけたのでご紹介します。
元の漢詩はこちら。
白居易 「鶴」
人各有所好(人はそれぞれ好きなものがある)
物固無常宜(常によいという物もない)
誰謂爾能舞(誰かが言う、お前はよく舞うことができると)
不如閑立時(しかし、静かに立っているときはさらによい)
皆様ならどこを強調するでしょうか。
文学者の森亮は、このように訳しました。
いつ何処で見てもいい物って/めったに無いが/鶴はいいな
翼をひろげた/お前の舞を/みんながほめる/――鶴はいいな
翼をおさめて/静かに立った/お前の姿が/ああ、わたしは一番好きだ/――鶴はいいな
(森亮『白居易詩抄』平凡社東洋文庫、1965)
題の「鶴」に堂々とマーカーを引いたような訳です。
「傍線部を現代語訳せよ」の答えとしては飛躍があるかもしれませんが、案外、本質を捉えた訳のようにも思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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