漢文の読み方について 思いつくまま(3)

漢文の読み方について 思いつくまま(3)

※今回は、前回のコラム「漢文の読み方について 思いつくまま(2)」の続編です(コラムタイトルをクリックいただくと、前回のコラムをご確認いただけます)。ここでは、全16項目のうち、9~12番目の項目についてお届けします。

=教科書の読み方 =改めた読み方

9.食馬者不知其能千里而食也(韓愈『雑説』)

指導書には「うまやしなものは、のうせんなるをらずしてやしなふなり。」と読むこともできるとある。訓読は文構造を示すものであり、この二つの読みは文構造を全く異なるものとして考えていることになる。指導書の「~と読むこともできる」というのは、実にいい加減な説明である。

ここで、「而」という字について、少しばかり説明をしたい。
多くの教科書や参考書では、「置き字の『而』は、順接と逆接の働きを持つ接続語である。」という説明をしている。しかし、同じ字が順接もしくは逆接の働きをするというのは、どう考えても論理的ではないし、納得しかねる説明である。
一年生で置き字を教える時に出てくる用例として、『論語』の有名な冒頭文「学而時習之不亦説乎」がある。「不亦~乎」は詠嘆の句形で「また~ずや」と読むので、「不亦説乎」は「またよろこばしからずや」とひとまとまりにして読むことができる。また、「学而時習之」は、「而」が「学」の後に置かれているので、「まなブ」の連用形に接続助詞「て」をつけて、「学びて時に之を習ふ」と読む。そして、この場合の「而」は、順接として働いているという説明をする。なんとなく分かったような気になるが、「子欲養而親不待」は「子養はんと欲すれども親待たず。」と読み、「而」は逆接の働きだと説明されると、エエッ?となってしまう。
初めの文において、「而」の関係する前半の語句「学而時習之」だけを取り上げて考えてみる。もし「而」がなくて、「学時習之」という形であればどうだろうか。「時を学びて之を習ふ」と読んで、「時間(というものがどういうものであるのか)を学習し、それを復習する。」という意味になる。会話文であれば、発話者が「学」と「時」の間に停頓を置いて話せば、聞き手はその伝達内容を発話者の意図通りに受け取ることができるだろう。しかし、文字として書き表されてしまうと、先ほど挙げたような「時を学びて之を習ふ」という読みになってしまう。
このように見てくると、「而」は句読点のない文語文において、誤読を防ぐために、異なる二つの用言句を区切る役割を持っているのではないかと考えざるを得ない。そして、あくまでも結果として、「而」によって区切られた「学ぶ」と「時に応じてそれを復習する」という二つの用言句の間には、順接の関係を見ることができるということである。決して「而」そのものが順接の働きを持っているのではない。
同様に、後に挙げた文における「而」も、「子欲養」(子どもが親を養おうとする)の句と「親不待」(親は死んでしまって待たない)の句とを区切る役割を持っているだけで、それぞれの句の示す意味によって、結果的に前の句と後の句とが逆接の関係になっているに過ぎない。中国人は文語文において接続語をあまり用いることをせず、順接や逆接については、句と句のそれぞれの意味内容を関連づけて理解するだけだと言われている。

以上、まとめてみると、「而」は、用言句と用言句とを切り離す働きを持っていると考えるのがよい。そして、切り離されたそれぞれの句の意味内容に応じて、結果として、順接や逆接の関係になると考えられる。『漢文学習必携』二訂版(*)では、置き字の説明における「而」の働きを、上記のような内容に改めた。

*編集部注
二訂版は2012年発行で、当時の最新版。2023年現在は三訂増補版 が最新版です。

再び、初めの文の読みに戻るが、素直に文頭から音読していくと、「不知其能千里」と「食」との間に「而」が置かれている(つまり、二つの用言句を切り離している)ので、「不知其能千里」まで読むと、わずかばかりの停頓を置くことになる。「その馬の能力が一日に千里を走るということは知らない」という意味のまとまりになり、後の「而食也」を読むと、「そして飼っているのである」という意味になる。全体としては「馬を飼う者は、その馬の能力が一日に千里を走るということを知らずに飼っているのである。」という意味である。

【補足】
「学而時習之」の「而」については、次のような説明もできる。
「A動詞+而+B動詞+代名詞」という表現形式がある。この場合、A、Bはともに他動詞で、AとBの目的語が共通する代名詞であれば、「而」をAとBとの間に置くことによって、Aの直後の目的語は省略できる。「学而時習之」は、「而」によって「学之」の「之」を省略している。
これと同じ表現形式としては、次のような用例がある。

 

10.鳴之而不能通其意(韓愈『雑説』)

この解釈は、「而」の前後にある二つの用言句の主語を入れ替えて読んでいることになる。「而」は二つの用言句を切り離す働きを持っているが、その二つの用言句に主語がないのに、「而」の前後で主語の入れ替わりを考えるのは奇妙である。上の「」のような読み方をすべきであろう。

 

11.敢有諫者死(不顧後患『説苑』)

①と②は、同じ教科書に載っていたものである。見比べてみると、すぐに奇妙なところに気づくだろう。「敢」という語は、訓読においては「あヘテ」という副詞的な読みをしているが、漢文においては助動詞的な働き(英語の助動詞のイメージ)をする語である。後に置かれる動詞に「進んで~しようとする」という意味を付け加える。②において、「敢」は、「諫」との間に前置詞句「以馬」をはさんではいるが、文法的には「諫」にかかる。したがって、「敢へて馬を以て諫むる者」は「馬のことで諫言しようとする者」という一つの名詞句であり、返読文字の「有」が文頭に来ているので、後に続く句との意味的な関係によって、「へてうまもついさむるものらば」という仮定の条件句として読むことができる。しかし、①はどうだろうか。「敢」は直後の「有」に意味を添えるはずであるのに、その読み方にはなっていない。書き下し文にしてしまうと、「敢へて諫むる者有らば」となり、「諫めようとする者がいるならば」という意味でとれるが、文構造を考えると、この読みと意味を表すためには、「有敢諫者」でなければならない。①の読み方は明らかな間違いである。正しい読み方は上の「」の通り。

 

12.毫毛不敢有所近(鴻門之会『史記』)

この読み方の問題点は、「近」を下二段の他動詞として読んでいるところにある。「近」は「近づく」という意味の自動詞しかなく、「近づけるものを持とうとはしなかった」という解釈には無理がある。この文は、「ほんのわずかも近づくことをしようとはしなかった。」という意味でとり、上の「」のような読み方をする。

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次回で最終回となりますが、引き続き『西播国語』に掲載された内容をご紹介します。(編集部)

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