はじめに
清代の仇兆鼇による『杜詩詳註』(巻二十五)所収の「唐故萬年縣君京兆杜氏墓誌」(1)を出典とする2019年大学入試センター試験の国語第4問は、学習者にとって、設問の意図を越えて、簡単に読み過ごすことのできない素材文であったようです。
嗚呼哀哉。有兄子曰甫、制服於斯、紀徳於斯、刻石於斯。或曰「豈孝童之猶子与。奚孝義之勤若此。」甫泣而対曰「非敢当是也、亦為報也。甫昔臥病於我諸姑、姑之子又病。問女巫、巫『処楹之東南隅者吉。』①姑遂易子之地以安我。我用是存、而姑之子卒。後乃知之於走使。甫嘗有説於人、②客将出涕感者久之、相与定諡曰義。」③君子以為魯義姑者、遇暴客於郊、抱其所携、棄其所抱、以割私愛。県君有焉。是以挙茲一隅、昭彼百行。④銘而不韻、蓋情至無文。其詞曰「嗚呼、有唐義姑、京兆杜氏之墓。」
嗚呼哀しいかな。兄の子有り、甫と曰ふ、服を斯に制し、徳を斯に紀し、石に斯に刻む。或ひと曰はく、「豈に孝童の猶子なるか。奚ぞ孝義の勤むること此くのごとき」と。甫泣きて対へて曰はく「敢へて是に当たるに非ざるや、亦た報ゆるを為すなり。甫昔病に我が諸姑に臥し、姑の子も又病む。女巫に問へば、巫曰はく『楹の東南隅に処る者は吉なり。』①姑遂に子の地を易へ以て我を安んず。我是を用て存し、姑の子卒す。後に乃ち之を走使より知る。甫嘗て人に説くこと有り、②客将に涕を出ださんとし、感ずる者之を久しくし、相ひ与に諡を定め義と曰ふ」と。③君子以為らく魯義姑なる者は、暴客に郊に遇ひ、其の携へる所を抱き、其の抱く所を棄て、以て私愛を割つと。県君焉有り。是を以て茲の一隅を挙げて、彼の百行を昭らかにす。④銘して韻せず、蓋し情至れば文無し。其の詞に曰はく「嗚呼、有唐の義姑、京兆杜氏の墓。」と。
概略は次の通りです。
杜甫は、叔母の喪に服し、彼女の徳を讃えた墓誌を石に刻んだ。すると、その行為に対し、「実の親でもないのに、ここまでの孝義を尽くすのは何故か」と問う人があった。杜甫は、過去に遡ってその理由を説明する。
杜甫とその叔母の子が同時に病を得た。巫女(女性祈祷師)から「柱の東南に寝かせた者は運気が良くなる」と告げられた叔母は、自分の子ではなく、杜甫をその位置に寝かせた。すると、巫女の予言通り、杜甫は生き残り、叔母の子は亡くなったのである。(傍線部①)
杜甫は、実子を犠牲にしてまで、自分を救ってくれた徳の高かった叔母のために、韻を踏まない銘を記した。(傍線部④)死者への哀悼のための銘文は、通常、修辞として韻を踏むのだが、うわべを飾るのではなく、真心のこもった言葉を捧げようとしたためである。(傍線部④)
従って、テクストの趣旨は、技巧に優れた詩聖杜甫が、叔母の墓誌銘に限って、意図して文飾を排したという点にあり、センター試験では、このことの理解を求める問いに高い得点を与えています。
しかし、学習者達の関心はそこにはなく、「我が子を犠牲にして甥を救った」という叔母の行為そのものに向けられ、とんでもない蛮行であると断じたのです。
しかも、命を救われた当事者の杜甫のみならず、これを聞いた客人が、涙を流すほど感銘を受け、叔母の諡に「義」を定めたというに至っては、学習者達は、自分たちには蛮行とうつる行為が、当時の社会通念では、「義」として賞賛されていることに、さらに違和感を強めたのです。
ここで、教員が、時代背景や当時の社会通念などに関する知識を講義することに意味が無くはないでしょう。
しかし、学習者は「我が子を犠牲にして甥を救うことは義か」という問いが衝撃的であるがゆえに、その答えを自分で考えたいという意欲が高かったのです。
学習者が「どうしてだろう」「解いてみたい」という問いを見つけた時、それは、能動的・主体的な学習、つまり思考を引き出し、探究へと導く授業をデザインする絶好の機会です。
では、どのような授業をデザインすればよいでしょうか。
問いから始まり対話に向かう授業デザイン
1 問いを検証する
まず、「我が子を犠牲にして甥を救うことは義か」が、質のよい思考を引き出すような問いとなり得るのか、検証してみましょう。
先の漢文を読んだとき、多くの学習者は、我が子を犠牲にする「母」に驚き呆れていました。
その背景には、現代の「母」ならばあり得ない行為、また、あって欲しくない行為であるという学習者達の倫理観があります。
次に、この行為として、杜甫が生きた唐代では、社会通念として「義」(正しい行為)とされました。(傍線部②)また、その根拠となるのは、前漢の劉向『列女伝』巻五節義伝「魯義姑姊」の説話ですから(傍線部③)、「我が子を犠牲にして甥を救うことを義とする」のは、古代中国を貫く倫理観に深く関わっています。
従って、学習者にとっての自明で、正統と認められた「真実」を覆し、学習者の注意に不調和をきたさせる「良い問い」(2)と考えてよいのではないでしょうか。
傍線部③について、もう少し解説を加えます。
魯義姑は、暴客(魯を攻めた斉の軍隊)に郊外で遭遇したとき、手を引いていた男の子(兄の子)を抱きかかえ、それまで抱いていた男の子(実の子)を棄てました。
その行為は、私情を断ち切るものとして敵国斉の将軍さえも感動させました。我が子ではなく甥を救った杜甫の叔母も、魯義姑と同じ有徳の人として賞賛されたのです。
従って、杜甫の叔母の行為は、唐代の一女性の個人的な行為として評価されるべきものではなく、普遍的な「義とはなにか」という問題領域に内包されるべき具体であると言えます。
すなわち、「我が子を犠牲にして甥を救うことは義か」という問いは、具体から発して、古代中国の「義」を相対化することで、「義とはなにか」という普遍的な問題領域に至るため、テクストと、またテクストの向こうに発信する発話主体と、そして学習者(読者)との対話による探究が期待できる「良い問い」、「哲学資源」(3)であると判断しました。
そして、この問いに基づいて、高校2年生を対象に授業をデザインし、実践に授業を行いました。
2 授業デザインの提案
(1) 対話とは何か
2022年から実施される高等学校学習指導要領国語において、漢文は、主に「言語文化」「古典探究」の教材に位置づけられています。
必修科目である「言語文化」の目標を見ると、「論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力を伸ばし、他者との関わりの中で伝え合う力を高め、自分の思いや考えを広げたり深めたりできる」資質・能力の育成とあります。
また、「古典探究」目標(2)にも「論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力を伸ばし、古典などを通した先人のものの見方、感じ方、考え方との関わりの中で伝え合う力を高め、自分の思いや考えを広げたり深めたりできるようにする」とあり、同様の資質・能力の育成が期待されています。
本稿で提案する授業は、学習指導要領の移行期の実践であったため、「言語文化」「古典探究」において育成が目指されるこの資質・能力の育成を目標として設定しました。
さらに、「伝え合う」方略としては、「対話」を重視しました。
対話とは、「AとBが話し合って、Cという新しい結論を出す。どちらも変わることを前提にしてコミュニケーションをとること」(4)ですから、「他者との関わりの中で伝え合う力を高め、自分の思いや考えを広げたり深めたりできる」資質・能力とは、対話ができる力、対話から学ぶ力であるわけです。
換言すれば、対話する者達は、設定した問題領域の共有者として、対立を恐れず、安易に妥協するのではなく、互いを尊重して合意形成を目指す。
従って対話者達は、それぞれの意見が途中で変わることに対して開かれていることになり、学習指導要領の「自分の思いや考えを広げたり深めたりできる」に合致します。
対話ができる力、対話から学ぶ力は、今回の問いを解明する学習過程に欠かせないものです。しかし、高校生は「対話」を苦手とする実態があります。
では、如何にして、教室に対話を引き出せばよいのでしょうか?
ヒントは、ディベートにありました。対話は苦手でも、ディベートは好むのです。
少し回り道にはなりますが、高校生にとってのディベートの魅力とは何なのか、明らかにしなければならないと考えました。
(2) 対話とディベート
そこで、2003年、「総合的な学習の時間」が始まって以来、2・3年生に、単元としてディベートを位置づけている広島県立呉三津田高校の生徒達にインタビューを試みました。その結果を要約すると次のようになります。
- 勝つために、相手の立場による発言を想定しながら、立論、反駁を作っていくので、論題を客観的に、多方面から分析する。
従って、思い込みで議論しないから、感情的なけんかにならない。 - 肯定・否定の立場を自分が選ぶのではなく、決められているから、本音でなく、役割として演じることができる。
- ゲームだと割り切れば、議論が後の人間関係に影響を及ぼすことはない。
- 5人で一つのチームになるが、それぞれの適性に応じて、役割を分担し、提示資料にも工夫を凝らすなど、事前に戦略を立てるのが楽しい。
- 相手の論理の綻びを突いて論破できたときに、達成感を感じる。
これらの発言は、生徒達が論題について理解を深め、肯定・否定のいずれか、与えられた立場で、相手の主張をも想定して立論していること、また実践では、相手の論証に十分な根拠があるのか等について、即時的かつ客観的に分析して論破することを目指していることがわかります。
このように、ディベートが、批判的思考力を養うのに有効であることは疑えません。また、4から、チーム構成員が勝利を目途に、効果的なプレゼンテーションを構成し、伝達の方略を立てていることもわかります。
ただ、2・3の発言から、生徒達は、ディベートを、ゲーム(非日常)の「対論」と捉えています。そこで交わされる議論は、日常の人間関係を犯すものではないという安心感に支えられて、論破によって証明される自らの論理的・批判的思考の優越に喜びを見出しているのです。
またディベートは、勝敗が決まることで、その論題に対する答えが決まります。
勝つために異なる立場の主張を想定するとはいえ、対話とは異なり、二項対立のいずれかに固執した論理の構築が求めらることになります。
従って、「我が子を犠牲にして甥を救うことは義か、否か」というディベートにしてしまっては、対話できる力、対話から学ぶ力を育成すべき資質・能力は、十分には育成できないことになるのです。
しかし、生徒によって評価されているディベートの要素は、教室に対話を生み出すための重要なファクターにはなるはずです。
呉三津田高校では、ディベートの論題は教員が提案するものの、生徒は自分の取り組んでみたい論題を選び、その論題を選んだ者同士でチームをつくりますが、肯定・否定の立場は、自分たちでは選べない仕組みになっています。
従って、ディベートの参加者は、まず論題を選ぶという行為によって、問いそのものに考える価値があると認定したことになります。
また、意見を形成するための立ち位置ははっきりしており、その逆の立場の意見を想定し、対比しながら、論を立てていきながら、生徒達は、勝利を目指すチームになっていきます。
つまり、共通の目的(勝利)を達成するために、よりよい意見にブラッシュアップしようとして、異なりのある多様な意見を出し合い、話し合い、受け容れるのです。その過程で、自分のチームに於ける存在価値、換言すれば自己肯定感を得ていると考えられます。
この分析に基づき、「問い」の真正性、「意見の相違」「自己肯定感」を、キーワードにすれば、「無理に自分の意見を推し進めないで多くの人の意見に合わせる」ことをよしとする高校生の教室に、対話を生み出せるのではないかと考え、図「対話が成立するまでのプロセス」(以下図と記す)(5)という仮説を立てました。
このプロセスマップで、「我が子を犠牲にして甥を救うことは義か」を問いとして対話的・深い学びを構築しようとするとき、分岐2「意見の相違を認識する」を、いかに仕組むかが重要なポイントになります。
(3) 意見の相違を作り出す
漢文に対し、十分な知識を持たない学習者に、単一のテクストだけで分析・解釈させても、感情的な浅い考察から抜け出せません。
従って教員は、メタ的な視点から教材を眺め、問いについて思考するためのヒントとなるような複数のテクストを吟味して選び、提供する必要があるのです。
また、一人で与えられたテクストと対話するだけでは、どうしても各自の経験則に縛られて、自分の見たいようにしか見ないという弊害が生じてしまいます。
従って、視点の異なる他者の分析や解釈を出し合い対話を試みることで、自分の考えを見直し、多様な視点を統合し、答えの適用範囲を広げるようなグループワークのある授業をデザインしなければならないと考えたのです。
一つの問いを、異なるテクストを介して、複数の学習者が対話をしながら解く。一人が一つのテクストをしっかり読み、問いの解答を作ろうとする。そのとき読んだテクストは、その学習者の意見の根拠になります。他のテクストを読んだ学習者は、また別の根拠を持った別の答えを提案します。
ここに、教室に相違が生み出されることになるのです。
挑む問いが「良い問い」であれば、根拠に裏打ちされた解答のための試案を、なんとか統合して、解き明かそうとするでしょう。ディベートで、勝利を目指して戦略をたてたときのように。
上記の図は、高校現場での経験から見出した対話へのプロセスを示すものですが、認知科学によって、授業の型として構築した実践研究があります。
東京大学CoREF(東京大学高大接続研究開発センター高大連携推進部門CoREFユニット) 提案の協調学習「知識構成型ジグソー法」(6)です。
この図の仮説を検証するべく、知識構成型ジグソー法の枠組みを借りながら、授業をデザインしていきました。
次回のコラムでは、広島県立呉三津田高校での実際の授業を例に、ジグソー法による授業デザインをご紹介します。
注
(1) 杜甫著・仇兆鼇註『杜少陵集詳註』四 文學古籍刊行社出版 1955、p.28-30
(2)「良い問い」の定義は、『理解をもたらすカリキュラム設計』(G.ウィギンズ/マクタイ(西岡加名恵訳)日本標準 2012、p.129)に紹介されたブルーナの記述を引用した。同書では、「良い問い」について、以下のような説明が加えられており、本稿の「我が子を犠牲にして甥を救うことは義か」という問いを、「良い問い」、すなわち本質的な問いとして認証し、授業をデザインする根拠とした。
良い問いは、興味深い代替の見解を顕在化させ、単に私たちの答えが「正しい」か「間違っている」かではなく、答えに到達する際、またその答えの正しさを擁護する際に用いる推論に焦点を合わせる必要性を示唆する。良い問いは、私たちが以前の授業や自分自身の生活経験から教室に持ち込むものに、意義深い関連づけを起こさせる。(中略)それらは理解したと考えていたことについて私たちに再考させるものでああり、一つの設定から他の設定へと観念を転移させるものである。
(3)「哲学資源」は、吉田公平「資源としての中国哲学」(『陽明学からのメッセージ』研文出版、2000)からの借用である。吉田氏は、我々が直面する課題に立ち向かう時に、中国哲学の遺産は果たして利用価値があるのか否かを哲学として検証する試みを提案している。
(4)平田オリザ『22世紀を見る君たちへ』講談社現代新書 2020 p134-135
(5)2016年、London Symposium Building Education Systems to Support the Development of 21st Century
Competencies Innovation and Change に、Global Cities Education Network に呉三津田高校が日本を代表して教育的課題の改革と挑戦について発表した。筆者は当時、呉三津田高校に校長として奉職、広島大学大学院教育研究科草原和博教授、主幹教諭岡嵜友一らとともにプロジェクトチームを作り、その一つの成果として本図を作成した。
(6)知識構成型ジグソー法は、建設的相互作用を通して自分の考えを深めるという認知科学の見地から創出された授業手法である。生徒に課題を提示し、課題解決の手掛かりとなる知識を与えて、その部品を組み合わせることによって答えを作り上げるという活動を中心にした授業デザインである。(三宅なほみ・東京大学CoREF・河合塾編著『協調学習とは―対話を通して理解を深めるアクティブラーニング型授業―』北大路書房 2016)
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国語・国文学専門の教育出版社
株式会社京都書房
https://www.kyo-sho.com
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