『論語』に現れた隠者と孔子(1)

『論語』に現れた隠者と孔子(1)

小路口 真理美・小路口 聡(共著)
*本稿は、小路口聡が、東洋大学エクステンション講座B(2011.11.10)で行った公開講座「『論語』の智恵に学ぶ 第二回 仁――人間にとって一番大切なもの」の内容をもとに話し合った内容を、小路口真理美が整理してまとめたものである。


 全国漢文教育学会による漢文教材リストを参照すると、現行の「国語総合」の教科書に『論語』は、53章が取り上げられています。
 それらの章段は、断片的であるが故に、また、その問いの普遍性ゆえに、読者は孔子の教えを承るべき書物という固定観念を持ってしまうのではないでしょうか。

 しかし、それでは、現代にも通じる箴言集に過ぎないという安易な評価しか与えられないことになるでしょう。つまり、時代のコードを無視して読むならば、孔子をいたずらに過去の聖人として祭り上げるに留まり、読者(学生)にとって向き合うべき他者とはなり得ないでしょう。
 では、孔子の生きた紀元前5世紀頃は、どんな時代だったのでしょうか。それについて、平岡武夫氏は、次のように解説しています。

周王朝の人々は、人間の世界に大きな調和と秩序があることを認め、それに従うことを政治および生活の理念としていた。社会の体制は、礼によって固められていた。この理念と体制が維持されなくなった周王朝の末期に、諸子百家が登場した。いわゆる戦国時代である。彼らははげしい生存競争の中で、自分の生き方をみつけねばならなかった。
(礪波護編『平岡武夫遺文集』中央公論事業出版、2002 )

 周王朝の崩壊によって訪れた混乱の時代を、孔子は、どのように認識していたのでしょうか。『論語』の中の孔子の言葉を通して確認しておきたいと思います。

 

一、「天下に道あればあらわれ、道なければ隠る」(泰伯篇13)――君子の身の処し方

 ここで言う「道」とは、「人の道」のことです。世の中が人の道を踏んでいるならば、そこで働き、人の道に外れているならば退いて暮らす。そういう生き方を、孔子は説いています。そして、次のように続けます。(漢文資料1)

邦に道有りて、貧にして且つ賤しきは恥なり。
邦に道無くして、富み且つ貴きは恥なり。

国に人の道が行われているのに(退いて暮らし)貧賤であるのは、恥である。
一方、国に人の道が行われていない時に(無道に乗じて)富貴であるのは恥である。

 では、孔子自身は、どのように生きたのでしょうか。
 それを知る上で興味深いのが、隠者の存在です。『論語』には、「隠者」が何人か登場します。この人たちは、まさに、孔子の言うように、道が行われていない世を避けて身を隠す。つまり、主君に仕え、俸禄を得て生活するのではなく、主に農業に従事し、自給自足の生活をしていた人たちです。

 彼らは、「四体勤めず、五穀分かたず」(微子篇)、すなわち、「手足を動かして働くこともしないで、五穀の区別もつかない」ような、「頭でっかちの知識人ども」という批判を、道なき世にも隠れず、できもしない改革を説いて回る孔子たち一行に浴びせたりもしています。(漢文資料2)

 こうした人物を登場させているところが、『論語』の面白いところだと思います。孔子の賛美者ばかりを登場させ、神格化・絶対化してしまうのではなく、孔子の批判者をもしっかり登場させ、同時代の人々が孔子をどのように見ていたかを、複数の視点で、多角的に描き出すことによって、孔子という人間を立体的に捉えることができるような構成になっているのです。

 『論語』の編者は、「隠者」をそうした道具立ての一つとして、効果的に登場させているように思います。孔子が行おうとしている世直し、改革を、皮肉っぽく、冷めた目で見つめる視点がそこには存在します

 しかし、そこに止まらず、さらにこの「隠者」という存在を、孔子自身の中に潜むもう一人の自分として見ると、さらに『論語』は面白く読めるかもしれません。
 もう一人の自分とは、いわばユング心理学の「影(シャドー)」、「分身(ダブル)」のようなものです。そう見ることで、隠者と孔子との対話は、いわば、乱世を生きる孔子の内心における、もう一人の自己との葛藤のドラマとして読むことができるのではないでしょうか。

 

二、「道の行われざるや、已に知れり」(微子篇18)――孔子の生きた時代

 『論語』微子篇には、長沮ちょうそ桀溺けつできという二人の隠者が登場します。
 孔子は、諸国の君主に道を説いて回っている旅の途中、弟子の子路に渡し場を尋ねさせたのですが、隠者たちは次のように言います。(漢文資料3)

長沮と桀溺とが、二人で並んで畑を耕やしていた。孔子一行が、そばを通り過ぎた。子路に、渡し場のある処を聞きに行かせた。……桀溺に尋ねた。
桀溺「お前さんは誰だい。」子路「仲由です。」桀溺「魯の孔丘の弟子か。」子路「そうです。」桀溺「滔滔と流れる大河のように、天下はもはや後戻りできないところまで乱れてしまっている。いったい、誰とともに、その流れを変えようとするつもりなのか。まぁ、あの、(自分の道を行うために)主君を取っ替え引っ替えするような男に従うよりは、いっそ(まるごと)世間を捨て去ってしまった男に従ったほうがましじゃないかね。」と言いつつ、種に土をかけ続けた。

子路は、(孔子のもとに戻って)告げた。孔子は、がっかりして言った。「鳥や獣たちとは、一緒には生きていけないね。私は、人間達と一緒に生きるではなくて、いったい誰と共に生きるというのかね。天下に道が行われているのであれば、わたしも、世の中を変えようなどと思いはしない(道が行われていないからこそ、変えようと頑張っているのだ)。」 

『孔子行狀圖解』(国会図書館デジタルコレクション) 弟子の子路に渡し場を尋ねさせる場面

ここで、桀溺は、孔子のことを「人をくるの士」と呼び、自分たちのことを「世を辟くるの士」と呼んでいます。
 「人を辟ける」とは、人間を拒絶すること。つまり、この人は自分の理解者かどうかを判断し、理解者でなければ拒絶するような、人を選り好みする人間のことを言います。

 お前さんが「先生」と呼んでいる孔子様は、人間を選り好みばかりしている男ではないか。今の世の中、お前さんの先生の話をまともに聞いてくれるような、お目出たい人間など、どこにもいやしない。もはや後戻り出来ないくらい、この世は乱れている(人の道は行われていない)のだから、いっそのこと、世間そのものをまるごと拒絶し、捨て去って、俺達と一緒に「隠者」として生きていくほうが、ずっとましじゃないか、と子路を誘うのです。

 先にも、平岡氏の見解として示しましたが、孔子が生きた現実は、周王朝の権威は失墜し、魯では、君主を蔑ろにして分家である三桓家の専横が続き、孔子も、一度は魯の国の重職に就きますが、やがては失脚してしまいます。

 それからは、大義名分を明らかにして、世道人心を正そうと、魯を離れて諸国を遊歴して道を説いて回りますが、結局どこの国にも用いられないまま、十四年ものあいだ亡命生活を続けなければならなかったのです。

 漢文資料3に戻りましょう。
 「隠者」たちは、ちょうど「鳥や獣」のように、自分の食べるものは自分で手に入れ、山に住み、悠々と野原を駆け巡っている。しかし、人間である以上、そうはいかないと孔子は考えました。

 豊かな者もいれば、貧しい者もいる、幸せな人もいれば、虐げられている人もいる、善人もいれば、悪人もいる、こうした人達と共に生きていくのでなくて、いったい、誰と共に生きるというのか。私には、そうした人間として為すべき仕事があるのだ。この世界を、もう一度、「仁」の心に満ちあふれた、豊かな世界に変えていかなければならない。

 孔子は、「道が行なわれていないことぐらい、十分に承知のうえだ!」と明言しています。そんなことは分かっている、それでも、自分にはやらねばならないことがある。今の世の中を変えなければならない。「天下に道が行われているのであれば、丘(わたし)だって、世の中を変えようなどと考えはしない。」すなわち、道が行われていないからこそ、変えようと頑張っているのだ。それが自分の為すべき仕事なのであると、弟子たちに向かって自分の使命を宣言しているのです。

 さて、漢文資料3は、子路を介しての、孔子と桀溺の対話のかたちを取っています。しかし、既に述べたように、桀溺(隠者)を、自分を用いてくれる君主がいないまま何度も危険な目に遭いながらも、諸国を遍歴し続ける自分を批判的に見つめる、もう一人の冷めた自分、孔子の分身(ダブル)、孔子の影(シャドー)と見なすなら、この章段はまた、別の解釈ができるでしょう。

 つまり二人の対話は、孔子の内心の葛藤のドラマで、ともすれば、理想を打ち砕かれて挫けそうな自分を、みずから鼓舞し叱咤激励するように吐き捨てた言葉が、まさに、「天下に道が行われているのであれば、丘も、変えようとはしない。」の一言であるのではないでしょうか。

 そして、先ほどの漢文資料2の孔子の最後の言葉も、また同様です。

子路が、孔子の一行から後れてしまった。杖で竹かごをかついでいる老人に出遇った。孔子が言った。「隠者だ。」
子路に、もう一度、会見するために、道を引き返させた。行ってみると、もう立ち去っていなかった。
子路(は引き返した。孔子が)言った。「……君子が仕えるのは、(禄を貪るためではなく)君臣の義を行うためである。[今現在、]道が行なわれていないことぐらい、十分に承知のうえだ(道が行われていないからといって、どうして隠者のように、人を避け、世を逃れ、君子の義を捨て去ってよかろうか)。」

 そんなことは、私にだって分かっている。それでも、自分にはやらねばならないことがあるのだ、という自らを奮い立たせ、叱咤激励する言葉です。
 また、同時に「隠者」は、孔子のもう一人の人格、その影であり、分身です。自分のやろうとしていることを、一歩退いて距離を置き、自省的・批判的、あるいは自虐的に見つめる、もう一人の自分として見てみると、聖人孔子が、内面に葛藤を抱えた、人並みに悩み、苦しみ、憂い、悶える一人の人間として、人間的なすがたで起ち上がってくるのではないでしょうか。

 ともすれば、滔滔と流れる大河の流れを変えようとしている、自分の行動の無謀さを思い知り、挫けそうになりながらも、それでも、人間の可能性と善良な心を信じて、天下を少しでもよい方向に変えようとする孔子がここにいます。

 そんな孔子やその弟子達を、励まし、背中を押してくれる人も中にはいたようです。
 次回のコラムでは、そうした孔子達の理解者や、孔子の世直しへの原動力について、資料とともにさらに考えていきたいと思います。


附記 本稿は「哲学資源としての漢文教材および学び方の開発に関する基礎的研究」(基盤研究(C)研究課題:20K02730)の研究成果の一部である。


【漢文資料】
資料作成にあたり、金谷治『論語』(岩波文庫 1999) を参照しました。

(漢文資料1)『論語』泰伯篇13
天下有道則見、無道則隱。邦有道、貧且賤焉、恥也。邦無道、富且貴焉、恥也。

〈書き下し文〉
天下に道有らば則ちあらわれ、道無ければ則ち隠る。邦に道有るに、貧しくして且つ賤しきは恥なり。邦に道無きに、富みて且つ貴きは、恥なり。

(漢文資料2)『論語』微子篇7
子路從而後、遇丈人、以杖荷蓧。子路問曰、「子見夫子乎。」丈人曰、「四體不勤、五穀不分。孰為夫子。」植其杖而芸。子路拱而立。止子路宿、殺雞為黍而食之、見其二子焉。明日、子路行以告。子曰、「隱者也。」使子路反見之。至則行矣。子路曰、「不仕無義。長幼之節、不可廢也;君臣之義、如之何其廢之。欲潔其身、而亂大倫。君子之仕也、行其義也。道之不行、已知之矣。」

〈書き下し文〉
子路従ひて後れたり。丈人の杖を以てあじかなふに遇ふ。子路問ひて曰く、「子、夫子を見るか」と。丈人の曰く、「四体勤めず、五穀分せず。孰をか夫子と為さん」と。其の杖をててくさぎる。子路きょうして立つ。子路を止めて宿せしめ、鶏を殺し、きびを為りて之に食らはしめ、其の二子をまみえしむ。明日めいじつ、子路行きて以てもうす。子曰く「隠者なり」と。子路をして反りて之に見しむ。至れば則ちる。子路曰く「仕へざれば義無し。長幼の節は廃すべからざるなり。君臣の義は、之を如何ぞ其れ廃すべけんや。其の身をきよくせんと欲して、大倫を乱る。君子の仕ふるや、其の義を行はんとなり。道の行なはれざるや、已に之を知れり」と。

(漢文資料3)『論語』微子篇6
長沮桀溺耦而耕、孔子過之。使子路問津焉。長沮曰、「夫執輿者為誰。」子路曰、「為孔丘。」曰、「是魯孔丘與。」曰、「是也。」曰、「是知津矣。」問於桀溺、桀溺曰、「子為誰。」曰、「為仲由。」曰、「是魯孔丘之徒與。」對曰、「然。」曰、「滔滔者天下皆是也、而誰以易之。且而與其從辟人之士也、豈若從辟世之士哉。」耰而不輟。子路行以告。夫子憮然曰、「鳥獸不可與同群、吾非斯人之徒與而誰與。天下有道、丘不與易也。」

〈書き下し文〉
長沮・桀溺、耦して耕す。孔子之を過ぐ。子路をして津を問はしむ。長沮曰く「夫の輿を執る者は、誰と為す」と。子路曰く「孔丘と為す」と。曰く「是れ魯の孔丘か」と。曰く「是れなり」と。曰く「是れならば津を知らん」と。桀溺に問ふ。桀溺曰く「子は誰とか為す」と。曰く「仲由と為す」と。曰く「是れ魯の孔丘の徒か」と。対へて曰く「然り」と。曰く「滔滔とうとうたる者、天下皆な是れなり。而して誰か以て之を易へん。且つ、なんぢは其の人をくるの士に従はんよりは、豈に世を辟くるの士に従ふに若かんや」と。
ゆうしてまず。子路行りて以て告す。夫子憮然として曰く「鳥獣はともに群を同じくすべからず。吾は斯の人の徒と与にするに非ずして、誰と与にかせん。天下に道有らば、丘は与に易へざるなり」と。

 

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